神奈川県海老名市において、農業従事者の経営支援を目的とした補助金事業を巡り、公文書の日付改ざんをはじめとする組織的な不正処理が行われていた実態が明らかとなった。交付対象の全案件において市職員自らが書類を改ざんし、要件を満たさない申請に対しても不適正に公金を支出していた本件は、地方自治体における内部統制機能の形骸化と政策執行プロセスの脆弱性を浮き彫りにしている。
事案の概要と発覚の経緯
問題の発端となったのは、海老名市が2025年度に実施した「海老名市農業振興対策事業補助金」である。同事業は、資材や燃料などの物価高騰に直面する市内農業者の経済的負担を軽減するため、農作業用車両の買い替え購入費用を助成する緊急経済対策として措置された。
| 項目 | 内容・数値 |
| 事業名称 | 2025年度 海老名市農業振興対策事業補助金 |
| 事業目的 | 物価高騰下の市内農業者に対する農作業用車両買い替え支援 |
| 調査対象件数・総額 | 38件 / 3,384万円(全件で不正改ざんを確認) |
| 改ざん認定箇所 | 計89カ所(領収書日付、申請関連書類の日付等) |
| 不適正交付額(返還請求) | 12件 / 845万4,000円(補助対象外と認定) |
| 発覚の契機 | 2026年7月21日の市監査委員会による監査結果公表 |
| 最終調査報告 | 2026年8月20日の議員全員協議会および臨時記者会見 |
本件は、2026年7月21日に市監査委員会が補助金交付プロセスの不適切処理を指摘したことで表面化した。市は当初、7月24日の定例記者会見において「申請38件中31件に改ざんの疑いがある」と公表していたが、庁内調査の進展に伴い、交付決定された38件(総額3,384万円)のすべてにおいて計89カ所の改ざんが行われていたことが確定した。同年8月20日、市は市議会全員協議会および臨時記者会見を開き、詳細な調査報告とともに関係職員の処分を発表した。
不正の手口と組織的偽造のメカニズム
調査によって判明した最大の特徴は、書類の改ざんが申請者である農業者による不正受給ではなく、担当部署である農政課の職員らによって組織的に主導・実行されていた点にある。
現場では、本来であれば交付対象とならない要件不備の申請を強引に通過させるための偽装工作が常態化していた。具体的には、補助金の申請受付期間外に既に購入されていた車両の領収書日付を書き換えて期間内の支出に見せかけたほか、前年度に更新済みで交付要件を満たさない案件や、旧車両の廃棄が確認できない案件についても書類の改ざんによって適合させた。さらに、行政内部の決裁スケジュールと提出書類の整合性を保つため、決裁日に合わせて受領日付を事後的に変更する処理も行われていた。
関係職員らは動機について、「物価高騰に苦しむ農業者を一人でも多く支援したかった」「申請を断り切れず、予算の支出を優先してしまった」と供述している。しかし、これは行政の裁量権を逸脱した明白な公文書偽造・変造行為であり、政策目的への配慮という名目で適正手続き(デュー・プロセス)を完全に放棄した組織的非行である。
処分内容と行政・政治責任の所在
海老名市は2026年8月20日付で、直接改ざんに関与した農政課職員に加え、決裁権者として確認義務を怠った管理職や出納事務を統括する会計管理者を含む計6名を地方公務員法に基づく懲戒処分とした。また、打ち合わせに同席して偽造行為を黙認していた主事1名に対しては文書訓告を行っている。
| 職位・所属(行為当時の役職) | 年齢/性別 | 処分区分 | 主な処分理由 |
| 経済環境部参事兼農政課長 | 53歳・男性 | 停職 2カ月 | 決裁日との整合および要件外更新分を対象化するため、書類の日付書き換えを決定・指示。 |
| 農政課主幹兼農業振興係長 | 47歳・男性 | 減給 3カ月 (10分の1) | 課長とともに書類の日付書き換えを決定し、担当職員へ指示。 |
| 農政課副主幹 | 46歳・男性 | 減給 3カ月 (10分の1) | 上席の決定・指示に基づき、提出書類の日付を実際に書き換えて偽造を実行。 |
| 商工課副主幹 (当時:経済環境部長) | 60歳・男性 | 停職 1カ月 | 決裁権者としての確認義務を怠り、文書偽造による不正な交付決定を防止できなかった管理監督責任。 |
| 経済環境部長 (当時:経済環境部次長) | 57歳・男性 | 停職 1カ月 | 部次長として部を統括・指導監督すべき立場にありながら、確認義務を怠り不正を看過した責任。 |
| 会計管理者 | 59歳・男性 | 戒告 | 交付決定等の審査・出納事務の統括者として、適切な事務処理および指導監督を欠いた責任。 |
行政運営の最高責任者である特別職の政治的・監督責任についても明確化が図られ、内野優市長は自身の給与を減給10分の5(3カ月)とする方針を示し、副市長2名の減給案とともに市議会へ関連条例案を提出することとした。
制度的背景と行政ガバナンスへの波及的影響
本事案は、地方自治体における危機対応型給付事業の運用実務に潜む構造的課題と、重層的なチェック機能の麻痺を如実に示している。
第一の波及的影響は、受給者である農業者への直接的な財務負担と地域社会における信義関係の破綻である。市は不正交付と認定された12件(計845万4,000円)について、農業者に対して返還を請求する方針を決定した。改ざんの実行主体が市職員であったとしても、客観的な要件を欠いた支出は公金として法的に正当化されないため、受給者側が是正措置を負う構図となる。物価高騰下で支援を期待して設備投資を行った農業者にとっては予期せぬ債務負担となり、行政指導全般への不信感を著しく増大させる結果を招いた。
第二の構造的課題は、起案から審査、出納に至る内部統制ラインの多重機能不全である。現場の課長・係長による違法な決定を部下が実行しただけでなく、それを監視・抑止すべき部長・次長級の決裁権者が形式的な確認に終始し、さらに最終防衛線である会計管理者までもが不適切な審査を見過ごしていた。組織内の上下関係や事業推進の優先意識が、公文書管理と法令遵守の規律を完全に圧倒していたことが分かる。
構造的課題の克服と再発防止に向けた展望
海老名市の事案が突き付けた教訓は、善意や温情主義を動機とした「ルールの現場裁量による歪曲」が、結果として行政の正当性と住民利益を根本から損なうという点にある。再発防止とガバナンスの抜本的再構築に向けては、制度・運用の両面から以下の改革が求められる。
第1に、証憑書類のデジタル化とトレーサビリティの確保である。紙媒体による領収書や申請書類の手作業処理は、職員による事後的な改ざんを容易にする物理的温床となる。電子インボイスの直接取り込みやタイムスタンプの自動付与を義務付け、書類受領後の改変がシステム上不可能となる基盤の構築が不可欠である。
第2に、申請相談窓口と交付決定審査の組織的分離である。現場の農政部門が地域の農業者と密接に対話しながら支援を行うこと自体は重要であるが、同一部署が要件認定や交付決定の全権を握る構造は、情実や支出優先の圧力を生みやすい。窓口業務と厳格な要件審査部門を分離し、客観的な第三者審査を経る体制への移行が必要である。
第3に、出納審査・内部監査の実質化である。会計管理者および監査部門が単なる書類の体裁チェックにとどまらず、抽出調査による現物確認や原本突合を定期的に実施する権限と体制を担保することで、形骸化した決裁ラインに対する実効的な抑止力を機能させなければならない。
